解文書

セットアップを済ませてください

Somebody, I was born to love you.

 『ボヘミアン・ラプソディ』を観ました。

 どうだった、と訊かれて言葉に詰まりました。良いか悪いか面白いかとか、そんな単純な思いでは片付かなかった。力を与えられたようにも思えたし、一方で絶望も感じた。だから強いて一言で言えば、「泣きそうになってしまった」というのが感想です。でもそんな情けない言葉は口に出せなくて、そうしたら、なんと言うべきか迷ってしまった。そのくらいやたらと深刻に受け取ってしまいました。

 今夜はその単純じゃない思いを伝えるために、明文化を試みて書きます。すみません、また長くなりますが。

 

 あれは、「シンガー、フレディ・マーキュリーという男の伝記」を「Queenというバンドの成功譚」としての尺でやろうとした映画だと解釈しています。ここで僕が触れるのはその映画に描かれた主人公のことばかりです。バンドメンバーの話はできないし、実際のフレディの話とも、そう言えるようで厳密には違うのだろう(脚色されたその人はある意味もう別人でしょうね)ということを一応前置いておきます。

 

 フレディ・マーキュリーというひとは、元々そんな名前ではなかった。ファルーク・バルサラです。それが親から与えられた名前。それを彼は上から下まで改名した。”芸名”だとして割り切ることを選びはしなかった。

 おそらく、迫害された人種の血脈がどうとかではない。なかなか意思を汲んでくれない家族と縁を切りたかったわけでもない。彼が名前を変えた一番の理由は、与えられたものに対してただただ「これは自分を指すものじゃない」という認識を抱いたからだと、僕はそう見ました。

 名前はロゴです。そして自分から発信するものの全てにもロゴがつく。名前を好きな人もいるけれど、そうでなければそれは一生、いや永劫理不尽に付き纏う呪いです。お前は生きても死んでもこれを掲げ晒し続けろということ。オーナー自身が納得いかないロゴのついたものなんて売り込めるはずもない。

 正直言って僕は自分の本名が上から下まで嫌で、”名乗らざるを得ない場面”が凄く苦です。意味は全然悪くないと思いますよ。その点ではそんなに親を責めるつもりはない。ただ、「これは俺を指すもんじゃないな」という感覚は何年も前からずっとずっと付き纏っています。それでも今の僕には、あのフレディのように周囲への相談もなく自分で決断してまるっと改名するなんてできる気がしない。親を含め親戚には理解されず叱責されるだろうし、社会的にも「親の想いを裏切る行為」だとして不評を買うだろうし、実際あんな親でも僕を産んだ時に想ったことがあるんだろうなと思うとその想いを汲む必要というか義理を考えてしまうし、そんなに大層な理由があるわけでもないから手続きが面倒そうだし、とかなんとかかんとかぐるぐる考えていたらもう駄目です。

 あんな風に自分のために選んだことが愛される人間ならいいのにな、って思いました。

 

 彼を愛する人間も、蔑む人間も、理解する人間も、同調しない人間も、言われた通りに動く人間も、騙す人間も、意味が解らないと匙を投げる人間も、意味が解らないのになんとなくで同じ言葉を口にしてみた人間も存在した。彼は沢山の人間を見た。彼に肯定的な人間ばかりじゃなかった。

 それでもフレディ・マーキュリーは十五億人に向かって"I LOVE YOU"と叫んだ。

 あんな風に言えたらどんなにいいだろうなって思いました。

 彼は十五億人を前に"Mama, I don't want to die"と歌った。

 あんな風に堂々と弱みを曝せたらいいのになって思いました。

 彼は十五億人と共に"We are the champions - my friends"と歌った。

 あんな風に自分も知らない人間もみんなみんな勝者で愛する友だと誇り高く称え合えたらいいのになって思いました。

 

 「でもあれはやっぱり彼が”普通”の人じゃないからできたことだよね」

 母の言葉にとどめを刺されました。

 僕と歌おうとする十五億人はいない。僕の選択は十五億人に認知してもらえないどころか、一人だって愛してくれる人がいるかも分からない。だから僕はひとが好きなのに、ひとに好きって言えない。僕が好きなだけ、僕の中だけの話じゃ意味がないでしょう。そう思ったら怖い。

 僕には誇れるものなんてなくて、中途半端で、何の才もなくて、恐れがちで羨んでばかりのみっともないヒトで、全然違う。僕には少なくともロックスターになる切符をもらう資格はない。僕の役ではないと決まっている。僕は彼にはなれない。彼になりたいと憧れてもなれない。「物語」の違いを感じました。フレディ・マーキュリーという人間は彼にだけできた。だから失望しました。そんな僕のことすらも彼は勝者だと言ってくれているのだろうか、だとしたら僕は何に勝利できた? あるいは”No time for losers”、敗者を気にかける時間なんか要らないと歌うように、僕の存在なんてないものとされているんだろうか。足場の見えないような不安に胸が詰まりました。

 彼になれないとしたら、僕は何ができるんだ。僕にできることなんか、ひとを好きになることぐらいしか思いつかないのに。ぐるぐる考えているうち答えが出てこないことに凹んできてしまって、「良い映画だった」って言えませんでした。でも観てよかったんだろうなとは思います。

「ひとが好き」ということ

 ソシャゲで推しのイベントが来て熱を上げていたので先週書くのサボりました。無事に走れたので良しとしましょう。

 

 今日はちょっと長いです、すみません……簡単な文章にするのが難しい事で、上手く解ってもらえるかちょっと不安ながら。

 僕が恐れるものの話をしましょう。率直に言うと死ぬことです。「物語」を打ち切られてしまうのが怖い。

 

 僕の得意なことは「良く捉えること」だと気付きました。ようは楽観なんです。こうならなかったら僕はとっくに折れてしまっていただろうし、こうだから僕は「能天気で脳内が花畑の御都合主義な幸せ者」と解釈されもするのでしょう。違う、とは言い切れません。できる限り世界は綺麗だと思い込んでいたいです。綺麗事を望んでいる。だから傷付かないように角を丸くして、粗をなくすために磨いて、そうしてから受け止めることでどうにか上手く精神衛生を保って生き長らえてきたのだと思います。

 「ひとが好きだ」と言うのだって、ひとをいつも羨みの、いや妬みの目で以て見てしまうことを、聞こえがいいように翻訳しているだけかもしれない。こんな視線が後ろめたいから僕は目を合わせられない。

 

 必要だと思ったので、少し、親の話をしますね。

 僕は毎日親から否定されてきました。僕は「間違い」だとされ続けてきました。「正解」だったことなど多分なかったか、どこか深いところへ埋もれてしまった。僕が本当に何をしても世間一般に害を成すから肯定するようなところがないようなモンスターだったということなのかもしれないけれど、とにかく僕はずっと、ずっと、認めてほしかったし、「間違い」を許されたかった。だから幼い頃は親に対して愚直にも「褒めて」と言ったことがあったし、脈絡もなく「いままでごめんなさい」と懺悔しだしたこともあった。親はいつ僕を棄ててもおかしくないのだと思っていた。現にそう脅されていました。だから親というのは自分の生殺与奪を握る絶対なのだと思っていた。それってもう神じゃないですか。多分信仰をしていました。寵愛を受けるために必死で、逆らえば奪われて、最悪死ぬのだと恐れていた。割と誇張でもないですよ。蹴り飛ばされて引き摺られて、鉄の物差で肌を打たれたんです。何度後ろから包丁で刺したいと思ったか、と目の前で人に話す母を、僕は昔から何度も見てきたんです。

 僕はこのヒトに認められるまで人間としては扱ってもらえないのだな、と、そういう考えに至りました。以来、「現在の自分は人間足り得ない」という感覚が付き纏うことになります。

 

 他人と接してみると、もう、皆が皆良く見えてしまうんです。

 それは容姿だったり雰囲気だったりファッションセンスとか声とか話し方とか、そういった外面もそうだし、度胸だとか博識さとか行動力とか発言力とか統率力とか記憶力とか、空気を読めるところとか、先を見越した気遣いができるところとか、ムカついた奴を一発殴れるところとか、僕よりずっと器用に流麗な言葉を扱えるところとか、褒め上手なところとか、そういう内面もそう。それから親を想うと安らげるような環境も。

 人々それぞれが自分より優れたものを持っていて、それは当たり前なのだけど、なにぶん自分はマイナスで同じ土俵に居ないものと思っているからあなたを見上げて羨んで、妬んで、同じ人間になりたかったと思っている。あなたになりたいと思っている。そうしたら自分はもっと「良作」だったかもしれないから。打ち切られる不安なんてないから。

 そしてなろうとしたところで結局なれはしないことも知っている。環境、育ち方、努力の仕方、苦難、どれも自分のレールと繋がることはないから。

 その事実が、どうしても悔しかった。納得できませんでした。できずにいる。

 もっと苦しんでいる人がいる? 違うんですよ。下を探して安心したいんじゃないんだよ。上に行かなきゃならないんだ。今の俺じゃ駄目なんだよ。今俺のレールが向いている先はいつか途切れてしまう。殺されてしまう。

 だから僕はあれもそれもできるようになりたくて手を付けて他人の作った歌を歌っていろんなグループに入りたがって同じ空気を知りたがって性感覚も混乱して、どれが正解だ? どこに居れば良識から外れない? どうすれば俺は悪じゃない? どれになればこの目をやめられる? 「半年前の駄目な自分」と違う奴にならなきゃいけない、「ひと月前の間違った自分」と違う奴にならなきゃいけない、「現在の失敗作な自分」と違う奴にならなきゃいけないんだ、ずっと、探して探して、

 そうして誰にも成れずに中途半端で沢山の名前を持つ何かが現在ここにいる。

 でもそれはすなわち、もう自分というものはオリジナルな部分だけでは構成されていなくて、沢山の憧れたひとたちの気配が混じってできているということで。その気配に護ってほしかった。僕より優れた”強い”ひと達に、刺されて殺される何度も見た悪夢から僕を護ってほしかった。きっとそのために他人が優れていると認識しやすくなっているのでしょう。この恐怖が拭えるまで、僕は延々ひとを、あなたを羨み続けてあなたになりたいと思うことを繰り返すと思います。すみません、あなたという存在価値で盾を作ろうとしているようで、不快に思わせていたら御免なさい。割と自分勝手な行動原理で御免なさい。綺麗なひと。強いひと。僕は僕のためにあなたを肯定している。でもあなたのために肯定していると捉えてもらえたなら、ほんの少し自信を持ったあなたがもっと素敵なひとに見える。

 僕はそんなことを考えているから、あなたにそんなつもりがなくても、日々あなたに生かしてもらっているのです。いつか、恩返しができたらいいのだけど。

「物語」を求めて

 僕の好きなものの話をしましょう。

 最近の僕は「人が好き」ってよく言うと思います。もっと言えばそれ以前に、僕は「物語」が好きで、どうしようもなく求めてやまないのです。今日はそんな「物語」の話を、なんとか纏めてみました。

 

 「物語」と「小説」の意味は違っています。
 「物語」は「手段」によって描かれる。小説はその「手段」のひとつというだけです。漫画でも、ゲームでも、歌、映画、演劇、絵、写真、ファッション……シェヘラザードのように”語り”聞かせることも、全部、表現するための「手段」になる。何気ないツイッターの呟きにしたって、手段に成り得ます。
 「物語」はすなわち、まあ、人生とかいうやつです。そして「手段」に触れれば、描いた人自身の「物語」がちらっと見える。フィクションだって、現実で得た経験なしには描けません。(この経験とは、必ずしもその人の手で行ったことでなくてもいいわけですが)
 「物語」は、字が表すとおりに、語られることや描かれることなど、「表現」されることを求めている。存在を知らしめようと、表へ出たがっている。人は表現せずにはいられない。僕が多趣味なのは、少しでも細かく描きたいが故です。

 

 僕はどうして物語を求める? =どうして他人が表へ出したものを欲する?

 それは、他人の「物語」を理解したいから、と言いたいですが。もっと追究して言えば、自分以外の人間が存在していることを感じると安心するからです。だから触れるのは、言葉を交わしたこともない人の作品だっていいんです。よく知りもしないけれど誰かがゲームを作った、小説を書いた、漫画を描いた。その事実が重要なんです。
 同じ「手段」を使ったとして、僕は一から十まで他人と全く同じ表現をすることなんて出来ません。他人も僕と同じ表現は出来ません。何故なら全く同じ生き方なんてしていないから。違う「物語」を生きているから。同じものを描こうとしても材料(物語)に相違点があれば別物になるのは当然です。同じアップルパイでも使う林檎が違えば味は変わります。卵が違っても粉が違っても分量が違っても焼き時間が違っても同じ名前。でも味は違いますよね。
 仮に僕と同じ表現をする人しかいなかったとしたら、「物語」はたった一つ。僕ひとりの存在しかないことになってしまいます。Aが沢山並んだところで、Aというパターン一つしかない。
 でも現実はそうじゃないから救われているんです。世界は自分の想像を越えたもので溢れている。ひとつ、ひとつ、画や文字や声に触れる度、他人の温度を感じる。指標に気付く。なんにもない砂漠に独りで立たされたら絶望です。そうじゃなくて良かったと、それが嬉しくて堪らない。嬉しいなんてもんじゃ足りないですよ。好きになってしまう。思わず縋りたくなってしまう。

 

 こんなことを普段長々と説明してはいられないから、僕は「人が好き」と言うんです。
 自分と少しでも違う筋書きの「物語」を持っている、他人が好き。そして、他人の「物語」同士が違っているということが好き。だから僕は、永久に「物語」を求め続けるのです。
 それはキリのないことで、かといって一人の「物語」の全てを理解することも絶対に叶わない。
 それが分かっていても、いやそれだからこそ、そんな測り知れないことを、知りたいと追い求めていたいのです。

セットアップ

 キーボードの前に座する習慣をつけなければと思い立ちました。

 それから、あまりにも自分自身・自分の向かう先を明文化するということにおいて下手くそすぎるので、自分についての記事を作るつもりで、自分を構成する一箇所一箇所を纏めることを目標にしようと思いました。そのためのブログ。

 要領を得なくなってしまったら纏まってないと宣言します。明確が欲しいひとは時間とられる前に回れ右していいです。

 

 ひとのこと言及してばっかりなんです。愛するにも、批判するにも。

 いつもいつも自分のことはぐらかして、棚に上げて、適当にへつらって、気にしないでって自衛して、そのくせ淋しがるので意味不明です。見てて苛立つと思います。あるいは気持ち悪いと思うかもしれない。それは怖い。そう思われたくないので、この意味不明を、自分で自分の在り方がよく分からない有様をなんとかしようと思いました。

 それは自分についてのレポートを書いているようで、大変に気が進まない作業だけど、そろそろ(ていうか遅いけど)自分の研究してから大学出ないと。将来もどっちにあるか分からなくて、就活とかできたもんじゃないですよね。

 読んで解ればいいなと思います。察しろなんて厚かましい、こっちが理解させたいって思うんです。誰にでも、とは言わないけれど、多くが読んで解る文章を綴りたいのに、ここで人に解らせることができなかったら上手く小説なんか書けない気がする。面倒臭いけどここだけは筋を通したいです。氾濫する言葉と戦い抜いて、この過渡期を抜けて、きっといい小説を書きます。 

 

 セットアップ、完了。