解文書

セットアップを済ませてください

「物語」を求めて

 僕の好きなものの話をしましょう。

 最近の僕は「人が好き」ってよく言うと思います。もっと言えばそれ以前に、僕は「物語」が好きで、どうしようもなく求めてやまないのです。今日はそんな「物語」の話を、なんとか纏めてみました。

 

 「物語」と「小説」の意味は違っています。
 「物語」は「手段」によって描かれる。小説はその「手段」のひとつというだけです。漫画でも、ゲームでも、歌、映画、演劇、絵、写真、ファッション……シェヘラザードのように”語り”聞かせることも、全部、表現するための「手段」になる。何気ないツイッターの呟きにしたって、手段に成り得ます。
 「物語」はすなわち、まあ、人生とかいうやつです。そして「手段」に触れれば、描いた人自身の「物語」がちらっと見える。フィクションだって、現実で得た経験なしには描けません。(この経験とは、必ずしもその人の手で行ったことでなくてもいいわけですが)
 「物語」は、字が表すとおりに、語られることや描かれることなど、「表現」されることを求めている。存在を知らしめようと、表へ出たがっている。人は表現せずにはいられない。僕が多趣味なのは、少しでも細かく描きたいが故です。

 

 僕はどうして物語を求める? =どうして他人が表へ出したものを欲する?

 それは、他人の「物語」を理解したいから、と言いたいですが。もっと追究して言えば、自分以外の人間が存在していることを感じると安心するからです。だから触れるのは、言葉を交わしたこともない人の作品だっていいんです。よく知りもしないけれど誰かがゲームを作った、小説を書いた、漫画を描いた。その事実が重要なんです。
 同じ「手段」を使ったとして、僕は一から十まで他人と全く同じ表現をすることなんて出来ません。他人も僕と同じ表現は出来ません。何故なら全く同じ生き方なんてしていないから。違う「物語」を生きているから。同じものを描こうとしても材料(物語)に相違点があれば別物になるのは当然です。同じアップルパイでも使う林檎が違えば味は変わります。卵が違っても粉が違っても分量が違っても焼き時間が違っても同じ名前。でも味は違いますよね。
 仮に僕と同じ表現をする人しかいなかったとしたら、「物語」はたった一つ。僕ひとりの存在しかないことになってしまいます。Aが沢山並んだところで、Aというパターン一つしかない。
 でも現実はそうじゃないから救われているんです。世界は自分の想像を越えたもので溢れている。ひとつ、ひとつ、画や文字や声に触れる度、他人の温度を感じる。指標に気付く。なんにもない砂漠に独りで立たされたら絶望です。そうじゃなくて良かったと、それが嬉しくて堪らない。嬉しいなんてもんじゃ足りないですよ。好きになってしまう。思わず縋りたくなってしまう。

 

 こんなことを普段長々と説明してはいられないから、僕は「人が好き」と言うんです。
 自分と少しでも違う筋書きの「物語」を持っている、他人が好き。そして、他人の「物語」同士が違っているということが好き。だから僕は、永久に「物語」を求め続けるのです。
 それはキリのないことで、かといって一人の「物語」の全てを理解することも絶対に叶わない。
 それが分かっていても、いやそれだからこそ、そんな測り知れないことを、知りたいと追い求めていたいのです。